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「ある三人の、とある10年間」
坂田美之助(株)ミノスケ オフィス・コブクロ社長
“運命の出逢い”という言葉がある。たとえば、男女の出逢いであったり、恩人との出逢いであったり、シチュエーションはさまざまだが、自分の人生を変えてくれるような出逢いを指すことが多い。坂田美之助氏とコブクロも、まさに“運命の出逢い”をしたのだろう。
ただ、普通のそれと違っていたのは、この三人の出逢いは、三人の人生を大きく変えただけでなく、何百万かの人々にも影響を与えたこと。
オフィス・コブクロのミノスケ社長が、二人との10年と、二人への想いを語ってくれた。
年末の晩、2人組が唄っていた
1998年の12月に、僕がやっている事業のひとつ、ゲーム業界の会合があって大阪へ行ったんです。それが終わって帰ることになり、同じ駐車場に車を止めていた仕事関係の人達と一緒にひっかけ橋(大阪:ミナミの戎橋)を渡りました。夜9時か10時だったか、心斎橋通りの店はみんな閉まって、ストリートミュージシャン達がずーっと並んでましたね。その中にコブクロという2人組がいて、そこでちょっと足を止めて聴きました。それから駐車場まで行ったんだけど、僕はなんとなく「もう一回戻ってみるから」と。みんなは「じゃあここで」と言うので、ひとりで戻って、20分間くらい橋の上で小渕と黒田の歌を聴いていた。20〜30人くらいの聴衆がいたかな。僕が聴いたのは「桜」と、あとはカヴァーだったと思います。その「桜」に突き抜かれて、すごいなあ、と動けなくなってしまったというかね。年末の寒い晩でした。
それまで自分の中には「そんなとこで唄ってても…」というのがあって、足を止めたことがないんですよ。そういう人間でした、はっきり言って(笑)。ところがコブクロには、もう一回引き返してみようという気になったんですよね。さらに名刺を渡して「来年の3月、うちの店でゲームの新作展示会があるからちょっと唄いに来てくれないか?」という話をしました。唄ってもらうからには、当然ちゃんと機材も用意してあげないと…といろいろ考える期間が必要だったので、年明けに彼らに電話をして、難波のホテルのロビーで二人に会いました。
あとから聞いたんですが、初めて逢った時、彼らは僕の名刺を楽譜にはさんだまま持ち帰ったそうで、1月の路上ライヴの日、それが楽譜からヒラッと出てきて、「そういえばこの人、連絡くれるって言ってたけど、まだこないな」と二人で話していたらしい。僕が彼らに電話したのは、偶然にもその翌日だったようです。
僕がやれる範囲で応援しようか?
そして3月、彼らは約束どおり来てくれた。大雨の日で大変な状況だったんだけど、頑張って唄ってくれました。ライヴ後に駆け込んで来てくれたファンが二人いたんですが、その子達のために1曲唄ってあげてましたね。その子達はもちろん感動してましたよ。で、全部終わったあと「今、君達はどう(活動)してるの?」と訊いたら、人にもらったという名刺をたくさん見せてくれました。「どこにも所属してないの? いい歌持っているのに、どうして?」と訊くと、誘いはあっても結局いい話はなかったと言うんですね。唄わせてあげるからと言われて行ったら1,000円もらって帰されたとか、バーで唄わされたとか、そんなのばっかりだという話で。「じゃあ、僕がやれる範囲で応援しようか?」とひとこと言ったんです。
とは言ったものの、初めてのことなので方法がわからない。そこで、どうやって応援したらいいのかということを、約1ヵ月半かけてまとめにまとめました。ファンとは何だろう?という分析から始めて、ミュージシャンて何だろう? 僕が応援しようとしているこの二人はどんな人間だろう?という基本的なポジションについてですね。デビューまでのストーリーなんてことを考えたのではなくて、どのような形でやっていくか、自分に何ができるかと。だって、ミュージシャンとしてどうとか、技術があるとかないとか、そんなことは、和歌山の空気しか吸っていない僕にわかるわけがないですから。
ただ、彼らはテープをダビングして売っていたんだけど、カーステレオで聴いたらあまりにも音質が悪くて、フィ〜ンフィ〜ンて変な音までする。これでは彼らがせっかくいい歌を作っても、そのよさが伝えられないと思った。まずこれをちゃんとした形にしないと…と。そこで僕の学生時代の後輩の清水興氏(NANIWA EXPRESSのベーシスト)に、「良いか悪いか聴いてほしい」と電話を入れました。カセットを聴いてもらったら、興ちゃんは「エエ感性を持ってるよ」というようなことを言ってくれたと思う。それじゃあ、CDってどうやれば作れるの?どこでどうやって録音できるの?しまいには「おまえ、プロデュースしてくれ」ということで、清水興プロデュース、神戸のチキンジョージで、連日徹夜しながらインディーズ1枚目のCDを作りました。
でも、僕としては、初めてのCDという喜びよりも、「疲れたよ〜」という感じ(笑)。いつ、何時間で出来上がるやら、制作費に幾ら掛かるのやら、何がどうなるか全くわからないまま、作るぞ!という意気込みだけでやりましたから。だから、不安なことばかりながらもようやく完成できたという喜びはあったけれど、まずは「やっと終わった…」。
でも、これでとりあえずは、音楽としてストリートで買って頂けるコブクロのCDが出来ました。
彼らと夢を追いかけたいと思った
僕は27歳の時に起業して社長になって、事業をなんとか軌道に乗せようと、20年間、とにかく毎日毎日一生懸命仕事するばっかりで。まだ若かったし、息を抜かず、振り向かずにやってきた。そういえば学生時代に少しはバンドもやっていたのに、その音楽すらあまり聴かなくなった。そんな時にコブクロの曲が僕を突き抜けて、彼らと話をした時に、なんとなく一緒に夢を追いかけてみたいなと思った、ってことですよね。今まで、仕事にあくせくしていた自分、「あ、俺って夢を忘れてたのかな、現実ばかりに追われてたなあ」と。彼らと出逢った頃は会社もある程度安定してきていたので、心の余裕みたいなものもちょっとあって…。彼らの夢に自分の夢を託してみようと思った。理屈は何も無かったです。一生懸命唄ってる彼らと、一生懸命仕事をしてきた僕だから、なんとなくわかり合えたという気がします。
上手いか下手か、ニーズがあるかないか、そんなんじゃなくて、とにかく一生懸命応援するよということしか僕には考えられなかった。失敗してもええやん、三人で一つだと。もちろんコブクロの曲は好きだったけれど、デビューできるかとか、CDが売れるかとか、そんなことは素人の僕にはわかりません。だから、たとえば、どこどこのプロダクションは著作権料も公平に分配する非常にファミリーな事務所らしいから、この先、二人が応援されてデビューできるようになった時は、あそこに入れてもらえたらエエんとちゃう?とか言ってたんですよ。
「私は背中を押す以外に何するの」
ただね、手前味噌に聞こえてしまうかもしれないけど、夢を追いかけさせてくれた最大の理解者は、はっきり言って、妻です。コブクロを初めて家に連れて帰った日、「二人を応援しようと思うんだけど、どう思う?」って訊いたんです。そしたら、「どうもこうも、家に連れてくるってことはやるって決めてんねやろ」と言うから、「うん、そうやねん」て。そしたら「もう決めてるなら、私は背中を押す以外に何するの」と。で、「先々、多分こんだけお金が要ると思うんだけど」と指を立てたら、「わかった」って。その時の彼女が、百万単位、千万単位、どちらを想像したかわからないけど(笑)。平日は社長やって、土日はコブクロと行くわけでしょう。帰ってこないわけですよ。さらに、ポルトヨーロッパでのライヴの時は僕が前説して、小渕と黒田が唄って、横で妻と娘二人がCD売って。あえて言うなら、“家庭内工業”とでも表現すればいいかな。それを一日に3ステージくらいやりました。
でも、コブクロって僕達の事務所のミュージシャンでしょ。自分達で作ったものは、まず自分達で売るのが当たり前。それでダメだったら人様にお願いするけど、最初はできるだけ自分達でやるんです。それは、今までやってきた全ての事業においてそうです。全部やって、これ以上、自分達ではまかないきれないくらい大きくなったら人に任せる。コブクロも、そういう感覚です。
手探りだけど自分なりの方法で
和歌山から応援するにも、ひとりじゃ何もできないなと考えた時、僕が以前に手伝ったことのある選挙活動というものを思いだしたんです。選挙というのは1人が賛同するともう1人を呼び込んでくれる。すると2人が4人、4人が8人、8人が16人とだんだん増えていってどこかでボーンと爆発するんですね。こうやって広げるにはどうしたらいいのって考え、まず“30人ライヴ”と呼びかけて、それをファンの方に主催してもらったんです。ファンのみんなに助けてもらおう、みんなと一緒にやろう、というのがこの30人ライヴの発想なんですけど。それを100ヵ所近くでやりました。僕の車で彼らをライヴの会場まで送り迎えしてたんだけど、1年で8万キロくらい走ってその車が潰れました(笑)。この30人ライヴはじめ、ファンのご自宅ライヴ、50人ライヴとか、成功して温かい雰囲気で終わったライヴがほとんどでしたね。
だけど、ブッキングに失敗して飲み会の余興みたいなものをやらされたこともありました。箸でグラスを叩くような客ばかり。そんなところで唄わせてしまったことが申し訳なくて、唄ってくれている二人を見るのが辛くて…。「帰ろう」と二人に目配せしたんだけど、逆に二人はまぁまぁと片手で僕を制し、ウインクするように「社長、我慢して。僕らも一生懸命やるから」と目で訴えてきた。結局最後までやったんですけど、終わってから「ごめんなさい、俺が悪かった」と頭を下げました。こんなブッキングはもう二度と入れさせないからって。そしたら「社長〜、こんなこと、ストリートではいくらでもありますよ! 全然気にしないでください。僕達、全然気にしてませんから」って言うんです。僕としては、ブッキング担当者に、飲み会の余興みたいなものは絶対に入れるな、と徹底的に言っておいたにもかかわらずこんなことになったので、責任感じて、情けなくて、二人に頭下げました。この一件は本当に申し訳なくて、今でも忘れられない。
とにかく手探りでしたけど、今まで自分がビジネスをやってきた感覚と、いろいろなところで得た手法やセンスを取り入れながらやっていこうと。僕は携帯電話事業をやっていたこともあって、途中でメディア活用が絶対必要だなと思いました。ストリートライヴも、今日はどこどこでやりますよ、と携帯で配信するんです。ファンが増えてきた時、そのファンが誰なのかということをちゃんと把握しないことには、何にも伝えられない。だから名前とか住所を書いてもらって、ある程度データベース化して、コブクロの情報を携帯電話のサイトにアップする。彼らも移動するじゃないですか。そうすると、ファンの子が今日も明日もやってると思って来てくれてもいないことがあって、待てど暮らせど会えないことになるでしょう。やっぱりどこかで情報の発信が必要だと思ったわけです。
協力してくれたファンと恩人達
彼らの曲がどんどん育ってくるから、それも聴いてほしくて2枚目、3枚目のCDも作りました。ストリートで唄うだけだと、それを聴いた人達が誰かに伝えたいと思ってくれても、ツールが無いわけです。ビデオに関しても、ライヴビデオを作るというより、唄っているのはこんな二人です、という彼らの姿の紹介用として作った感覚でした。当時から彼らは、ライヴで伝えたいという情熱がすごかったですから。とにかくCDやビデオという形にして「こんなにいい歌を歌っているミュージシャンがいますよ。あなたからまた誰かに教えてあげてください」と。要はさっき言った、ファンが次のファンを作る、ということです。ファンがファンを作ってミュージシャンを育てていくというのが、うちの合言葉みたいなもの。ファンに育てられるミュージシャンがいてもいいんじゃないの?と。だって僕もファンのひとりだから。
2枚目、3枚目のCDを作ったのは、淡路島のうめ丸というホテルですね。興ちゃんが紹介してくれて。うめ丸の社長さんが音楽好きで、敷地内でスタジオも経営しておられたんです。僕らは広間みたいなところでガヤガヤと合宿してね。社長には本当にお世話になって、今でも親しくさせて頂いています。興ちゃんはプロのミュージシャン仲間を連れて来てくれたり、自分でもベースを弾いてくれた。すごく豪華な参加ミュージシャンのインディーズ盤ですよ。でも当時、CDを置いてくれたのはミヤコ(CD店)さん、ただ1店だけでした。ミヤコの心斎橋店さんがすごく好意的に、強烈に売ってくださった。おかげでインディーズ盤として随分話題になったと思います。
清水興、うめ丸の社長、ミヤコの店長、みなさん、ずっと応援してくれている恩人です。興ちゃんはミュージシャンを志して医大を辞めた人。彼がもし医者になっていたら、今の形のコブクロは絶対にあり得なかった。その運命にも感謝してます。
新たな戦力も加わり、デビューへ
当時、音楽面で彼らと意見が揃わないことは全く無かったですね。出来上がってくる曲がどれもすごく素朴で、伝わってくる。映像がパーッと浮かぶんですよ。僕はコブクロの歌を「夕焼け小焼け」みたいな歌、といつも言ってた。最初からいきなりズドンと飛び込んでくるわけではないけど、気がついたら心に染み込んで消えない、知らずに口ずさんでいるような。何度も言いますが、僕は音楽業界の素人でCDの作り方すら知らない人間でしたから、最初はデビューさせようとか、そんなこと全く考えてもいなかった。ただ途中から、彼らのこの素朴な良さをもっと広く大きく伝えるためには、若い年齢という要素も必要かもしれないと思い始めたんです。今のこの良さを100パーセント伝えるには、なるべく早いほうがいいんじゃないだろうかと。
その頃、人を介してキョードー大阪の関岡君に出逢った。200人か250人くらいの大阪クラブクアトロでのイベントライヴか何かを観てくれた後、「大阪城が見えました〜!」とかなんとかワケわからんこと大声で言いながらドーン!といきなり楽屋に入って来た男がいて、この人だれなん?と(笑)。そこでイベンターさんとして紹介して頂いた。僕は、あー、イベンターさんというのはみんなにこういうこと言うんかな?と真に受けなかったんですけど(笑)。でも熱意を持って長いあいだ情報を訊きにきてくれ続け、結局「見えました」と言った数年後、実際に大阪城まで引っ張っていってくれた。彼の功績も大きいです。それから三浦に出逢い、またひとつ戦力が加わった。最初は「コブクロの仕事をお願いするかどうかはわからないが、俺と仕事する気があれば来てくれ」と言ったんです。ビジネスをする上で、まず人間同士、僕と合わないとうまくやっていけませんから。そして「よろしくお願いします」という返事が来た。関岡君も三浦も古くからの重要メンバーで、僕は“チームコブクロ幹部”と読んでます。“スタッフ”は、ファンの皆さんのことなので。
そうこうするうち、ライヴの動員数もどんどん大きくなって、2000年のZepp Osakaライヴの時、レコード会社さん6社をご招待したんです。そしたら6社ともデビューに手を挙げてくださった。その時に最も考えたのは、コブクロを大事にしてくれる会社であること。2点目は「どこならお互いにとっての“1番”になれるか」でした。所属アーティストが何百人もいたらきついかもしれないなと。で、ワーナーさんは抱えてるアーティスト数も程よく、温かい感じがしたんですよ。あと、精神的にも「ぜひ、うちに来てください!」という強いものを感じましたね。契約することになって初めてワーナーさんへ伺った時、僕は「絶対にワーナーの星になります。応援してください」とお願いしました。
真髄を曲げるな、真っ直ぐいけ
そこから「YELL〜エール〜/Bell」以降のメジャー所属アーティストとしての活動が始まるわけです。そんな中で一度だけ葛藤のようなものもありました。彼らも非常に勉強熱心なので、今どんな音楽が流行っているかとか、つねにリサーチしているわけですよ。メジャーデビューしたプレッシャーだって感じるでしょう。当然、周囲の影響を受けることもある。だから、もちろん影響や刺激も大事なんだけど、一歩間違えると“ちょっと誰々ふう”みたいな曲になってしまったり…という場合もありますよね。それをコブクロにも感じた時期があって、しばらく様子を見ていたんだけど、僕はやっぱり違うと思った。彼らは彼らなりに悩んでいるように見えたし。そこで二人を呼んで意見したんです。ここまでこられた理由の中には、コブクロのオリジナリティをみなさんに評価してもらえたことがあったからじゃないの? それを見失ってはいけないって。
素人の言葉として言ったのは「僕は、コブクロの物真似やカヴァーをいろんなところでやってもらえるようになってほしい。そうなった時、コブクロというひとつのジャンルを築けると思う。真似をしてもらえるということは、みんながその歌を知っててくれて特徴があって、その人にしか歌えないものがあるから。君達もそうあってほしい。コブクロの真髄を曲げるな、真っ直ぐいけ」ということでした。小渕は黒田の声に惚れ込んで一緒にやりたいと思った。黒田は小渕の音楽センスに惚れて一緒にやりたいと思った。小渕は黒田の声や唄に合う曲を書き、黒田は小渕の曲を最大限に表現してきた。そこに終始してきた原点に戻れと。
要するに「君達が本当にやりたい音楽をやれ」と伝えました。彼らはすごく素直に聞いてくれて、そのあとも二人で随分話し合って、自分達の筋道を確認し合ったようです。それからですね、どんどんいい曲が生まれてきた。もちろんあれ以来、僕からは何も言っていません。僕は基本的に、曲が出来上がるまで何も言いませんから。
涙が噴き出して止まらなかった日
こうして、コブクロと10年近くやってきて、個人的にも、事務所の社長としても、それぞれ嬉しかったことは数えきれないほどあります。極個人的なことの詳細は控えますが、ひとつ言えるのは、“他人が身内になった時こそ本当に強い”ということです。もちろん身内は最初から身内なので強いんですけど、他人が身内同然になった時はまた違う強さが生まれる。
“社長プラス僕個人”という立場として一番嬉しかったのは、10周年記念ライヴですね。アンコールも終わった時、会場から「社長をステージに上げて!」というたくさんの声援を頂きました。それで挨拶させてもらったんだけど、もうあの声援を聞いたとたん、涙が噴き出して止まりませんでした。僕みたいな者を、この10周年ライヴのステージに…と言ってもらえるなんて、これはあり得ないと思った。それほど嬉しくて心から感謝しました。
この感慨にはもうひとつ理由があって。あとでまた話しますが、僕はライヴチケットの申し込み方法で、ファンのみなさんにすごく手間をかけているんです。特にこの10周年記念ライヴのチケット申し込み方法では新しい試みもしたんですが、そのシステムのトラブルがあったりして、みんな大変だったと思います。でもその壁を乗り越えて、わざわざ和歌山まで観に来てくださって、改めてファンの方って本当に有難いなあ…と。「僕はチケットのことでみなさんにあれだけ苦労をかけたじゃないか。今日の俺はここに上がる資格が無い。それなのにステージに上げさせてくれるのか?」と思ったらもう…。感謝のひとことに尽きます。
みんなにライヴを観てもらいたい
おかげさまでコブクロのライヴを観たいという方がたくさんいらして、申し訳ないけれど現在ライヴチケットが抽選となり入手しにくくなっています。そんな状況の中、「私は5公演とも当選した」という人もいれば、「私は1公演も当たらなかった」という人もいる。僕は、ひとりでも多くの方に観て頂きたいと思っているので、それが実現できるような方法をずっと考え続けています。
まず、ライブを観たいと思ってくださるみなさんに、1ツアー中:1公演は観て頂けるようにしたい。2回行けるとしても、その場合も立て続けの2公演ではなく、熟成度の異なるツアー前半と後半1回ずつを観て頂くほうがいいかもしれない。公演数にも限界があります。1公演増えれば、それだけ小渕と黒田のノドが消耗しますから。できるだけ良いコンディションで唄わせてあげたい。リリースもあるし、楽曲制作の時間を充分に取らせてあげたい等々、いろいろ考えることがあるのです。
ありがたいことにここ数年、たとえば大阪公演なら1公演約1万人の席数に対し3万人近い方々が応募してくださっています。とくに土日の公演はご応募が多く、逆にそれだけ多くの方が抽選にはずれてしまっているのも現実です。学校やお仕事やお住まいの地域など、みなさまそれぞれの都合も有りなかなか難しいとは思うのですが、第一希望から第三希望までの申し込みを受付させて頂いているツアーの際は、ご自身のご都合に合わせて、またご家族やご友人といらっしゃる方は充分にご相談の上、できれば第三希望までお申し込みくださると、より多くの方に参加して頂ける可能性が広がるのではないかと思っています。仮に30公演くらいあるツアーであれば、お申し込みによっては全員にライヴを楽しんで頂くことが可能な方法だってあるはずです。
たとえば2008年のツアーですと27万人分の席数がございました。究極の話ですが、要するにこれを27万人の方々に有意義に観て頂けるような方法は無いだろうか?ということなんです。コブクロはライヴアーティストですから、本当にひとりでも多くの方に観て頂きたい。そのために、いろんなことに対し、できるだけみなさんに喜んで頂けるような方法をこれからも考え続けたいと思っています。
いつか二人に渡してやりたいもの
現在、音楽業界には、どんな方が何を買ってくださっているのか、その資料が全く無いんですよ。コブクロのCDを過去に買ってくださったファンは誰なのか? 一度でもライヴに足を運んでくださった方は誰なのか?というような。昔、コブクロが路上で唄っていた頃に、ファンのみなさんがノートに書いてくださっていたような資料が、この業界にはありません。一度でもコブクロを好きになって頂いて、CDを買ってくださった方、ライヴに来て頂いた方の顔が見えない状態なんです。たとえば、3年前までライヴに来てくださっていた方が今来られていないとしても、なぜ来られないのかその理由を知ることもできないし、どうぞまたいらしてくださいというお知らせを送ることもできない。
そのことに気づいて愕然とし、プロダクションの社長として自分は何やってたんや!当たり前のことを当たり前としてできていない自分が情けない。この先、僕は彼らに何を残してあげられるんだろうか? 大きくなっていくファン同士の輪を保ってあげたい。でも、そのファンのみなさんはどこにおられるのだろうか?と思いました。ファンのみなさんとコブクロをつなぐもの! 誰がファンなのかがわかるもの! これからもっともっとコブクロが育ち、ファンが何百万人になっても、その何百万人分のファンとコブクロの絆となる財産を、コブクロに渡してあげたい。
僕から二人に最後に渡せるもの。それは、ファンのみなさんとの絆なんです。これはファンのボスとして、プロダクションの社長として、僕がやらなければならないこと。今、ファンのみなさんとの絆を再度、作り始めようとしています。
ミュージシャンは消耗品じゃない。ずっと先のことも考えてあげなければね。
(坂田美之助:談)
数年前、kobukuro.comの管理人が、サイトの編集後記に「世の中に才能のあるミュージシャンはたくさんいるかもしれない。でもコブクロは才能と同時に幸運も持ち合わせていた。その幸運とはミノスケ社長に出逢ったこと」といった意味の言葉を書いておられた記憶がある。改めてその言葉に共感させて頂きたい。ちなみに、ミノスケ社長の誕生日は昭和29年5月6日。ここにも“5296”と同じ4つの数字が並ぶ。
最後に、一問一答をお願いした。
Recording & Tour Official Book『5296 -10 YEARS ANNIVERSARY-』
出版社:(株)ヤマハミュージックメディアより転載。
- All text by E.Shimizu -
社長コラム archive
ここでは、コブクロと事務所社長である坂田美之助の出会いやデビュー前のエピソードを、当時の社長コラムを通じて紹介いたします。
※現在はTEAM KOBUKUROの「コブクログ」にて、社長ブログを掲載していますので是非ご覧ください。
あけましておめでとうございます。
昨年は、みなさまのおかげで、コブクロをメジャーデビューさせていただき、本当にありがとうございました。
あっという間に通り過ぎた1年で、ファンのボスとして、音楽業界について日々勉強の毎日でした。
デビューの年は、なんとか関西の皆さんに感謝の気持ちを返せないかと思い、秋口より、今回のカウントダウンライブの企画を始めました。 「できうれば、このライブをファンの皆さんとともに作ることはできないだろうか」「みんなでコブクロを育ててきたのだから、デビューの年のカウントダウンは、ぜひみんなで作り上げたい」という思いを、 主催の朝日新聞社さまに、投げかけたところ、この主旨をご理解いただき、朝日新聞本社内に「カウントダウン何かお手伝いしたいコーナー」を作っていただきました。 こうして、主催者様、オフィス、ファンの皆さんの全員が、同じ目線で作るカウントダウンイベントができました。みんなで作りあげたからこそ、すばらしいカウントダウンとなったのではないでしょうか。
ご協力いただいた皆さん、本当にありがとうございました。
★コブクロファンの原点〜50人LIVEの精神~会館自主興行について
さて、カウントダウンライブは、1万人というファンに囲まれたすばらしいライブとなりました。メジャーの世界に行くと、大きい会場でのライブばかりになりがちです。 しかし、ボスは、あえて、何とか50人ライブに代わるものが全国でできないだろうかと考えております。しかしながら、地方会館でのライブをオフィスが主催して、全国をまわるというのは、 負担が大きく、実現は難しいと悩んでおりました。そんなとき、ある地方会館から、「コブクロにぜひ来てほしい」という依頼が届きました。業界では、このライブのことを会館自主興行というらしいです。
この会館は、「会館友の会」の構成で自主公演を開いていらっしゃる会館です。友の会のアンケートにより、コブクロを呼びたいという希望があったとのこと。 ゆえに、この公演は、会館が主体となり、友の会のメンバー、並びに、その地方の一般の方々を中心に公演をしたいというお申し出をいただいたのです。 このとき、インディーズ時代の50人ライブがボスの頭をよぎりました。
この会館自主興行を全国50人ライブとしたいとボスは考えています。
本来、50人ライブは、主催者が中心となって行うシークレットライブでもありますので、地元の方に楽しんでいただきたいという会館の主旨を尊重し、 オフィス、並びにHPにての公開はしないでおきたいと考えます。(会館の要請があれば、この限りではございません)もしかすると、皆さんの身近な場所での会館自主興行があるかもしれませんので、各地区での情報を独自でお調べいただきますように、お願いいたします。
また今後も、皆さんの地区での会館自主興行が開かれますように、心からお願い申し上げます。
以上
2002年1月4日 ファンのボス 坂田美之助
(注:上記のような会館自主興行については現在のところ行っておりません。)
4年前の12月、TVゲーム業界の忘年会の帰り、たまたま心斎橋でストリートライブをしているミュージシャンの歌声に一瞬足を止め、聞き入りました。
僕は、音楽には実はまったく興味がなく、車を買ったら、車のCD10連装のボックス用にCDを10枚一度に買って、次に車を買い換えるまで、そのまま入れ替えることのない、言えば音楽おんちでした。まして、ストリートミュージシャンの歌声に足を止めるなど、今までには無かったことだし、「みんな楽しんでるなぁ〜」くらいにしか思っていませんでした。そんな僕がそのとき足を止めたなんて、今でも信じられないくらいです。
一生懸命歌う二人を見て、「がんばってるな〜!!」などと思いながら5分ほど聴いて、自分の車を取りに駐車場に向かいました。
さて、ここからがなぜなのか?今でもわからない行動をしたのです。僕は、駐車場から引き返して、また彼らの元に戻りました。そして、30分ほど彼らの歌を聴き、なにげに、「会社のTVゲーム新作展示会で歌ってくれないか」と彼らに話したのです。二人に名刺を渡し、彼らが作ったデモテープを買いました。
帰宅する途中、車の中でそのテープを聴こうと思い、デッキにセットしました。しかし、そのデモテープというものは、音量・音質が最悪で、彼らの実際の曲とはかけ離れたものだったということは、今でも覚えています。
二人の印象は、今振り返ってもあまり覚えていないのです。ただ、声量と歌の切れを感じました。
クロチャンの身長も、そんなに大きいとは思わなかったのだと思います。そのときの彼らの曲は、なぜか?僕が学生時代にバンドをしていたころをなつかしく思い出させてくれたのでした。
これが出会い。運命の出会いとはまったくというほど何気ないものでした。
約束どおり、TVゲームのメーカー新作展示会に来てもらうためにコブクロに連絡をとりました。
僕が電話をする前日、二人はちょうど僕のことを話していたらしいのです。出会ったときに渡した僕の名刺が、楽譜ファイルの間から出てきて、「確か、この人、『イベントにきてくれないか?』って言ってたなぁ。 だけど、連絡が無いなぁ。一度電話してみようか」と話していたところだったとのこと。
名刺はいつもなら名刺入れに入れているのが、その名刺だけが、なぜか、楽譜ファイルに入ってたんですよー。と二人の話。「このやろう!!うまい話をするやつらだ」と思いつつ、 ニコリ!!とした僕があったような気がします。
そして、数日後、難波のサウスタワーホテルのロビーで二人と会い、イベントの打ち合わせをしました。このとき、なぜ僕は自分の会社の説明を一生懸命したのだろう?と未だに思います。
二人からOK!をもらった僕は、マイクにマイクスタンド、スピーカーと、二人が歌うのに必要な音響設備の準備にとりかかりました。そして、ミノスケTVゲームメーカー新作展示会の日がやってきました。
当日はあいにくの天候で、雨と風がひどく、その上寒い!と最悪の状況の中、二人はぼろぼろのバン(車)で和歌山のミノスケ国体本部店へとやってきました。二人が国体店を見るのも、もちろんこれが初めてでした。
黒田談「社長に対する印象は?」
まず、電話をくれたことでちゃんとした方だと思いました。そして、会ってみると、怪しい人!(笑)
でも、実際に会社の説明などを一生懸命してくださる姿を見て、社長自身に興味を持ちました。
思いっきり半信半疑でした!(笑)
話を聞けば聞くほど真実味が無くなる。ゲーム業界なんてはたけ違いの人がどうして?
しかも、そのとき会った社長の格好が、色付きめがねでちょっとカジュアル。うさんくさい!と思いました(笑)
その日は、TVゲームメーカー新作展示会で、本当はたくさん人が集まってくる予定でした。しかし、強風と雨、寒さと悪条件が3つも重なってしまいました。最悪の天候!!人もまばらだし、お客様に歌を聞いてもらうのも申し訳ないような状況の中、二人のライブが始まりました。
そんな中でも、二人は一生懸命歌い、がんばってくれたのです。このとき、どこで聞いたのか、ファンが8人来てくださっていたことを覚えています。わざわざ来てくださったファンの方に歌い終わった後、1つのテントでコブクロ交流会をやりました。
その後、遅刻してきたファン二人組があわただしくやってきました。ファンの二人は、なんとしてもコブクロの歌を聞きたいと懇願。コブクロは遅刻組みの二人の為に1曲だけ「君といたいのに」を店内で歌いました。その二人のファンはとても感激していたことを今でも覚えています。
本部店のマンガ喫茶の一部を二人の控え室として区切り、そこで休憩をしてもらった後、ミノスケ本部に行きいろいろと話し合いました。その時、クロチャンが僕に厚い名刺の束を見せたのです。それは「デビューさせてやるとか」「二人に歌ってもらいたいとか」自称、音楽関係者からもらった名刺でした。
「今まで騙されてばかりで、『歌わさせてやる』と言われて行ってみると、ライブハウスの店の余興代わりにされたり、待ち合わせに行ったら相手が来なかったりとそんな話ばかりです」と二人は僕につぶやきました。
じゃ!!僕にできる範囲で何かしましょうと言ってしまった。
この言葉が、二人と僕の苦難の始まりのスタートでした・・・。
コブクロ談「当日の感想は?」
会社を実際見るまで、やっぱりまだ信用できなかった。お互いに、「絶対サイン(契約書にハンコを押すこと)はせんとこな」って言ってました(笑)
でも行ってびっくり!めっちゃでっかい会社やった!
当日、マイク片手に一生懸命僕らのことを説明してくれる社長を見て、「なんでここまでやってくれるんだろう???」ってすごく感激しました。アマチュアやのに、プロとして扱ってくれた。こんなにやってくれるのを見て、嬉しいのと同時に気持ちが引き締まりました。
さて、出来るだけの事はすると約束したものの、何をどうやっていいのか?二人を応援するとは?ただ、頭の中で毎日考える日々が続いた。音楽業界のことなど知るすべもなく、知り合いがいるわけでもない。 レコード(CD)メーカーさんの名前すら知らず、簡単に「じゃ、僕の出来る範囲で応援する」と言ってしまったものの、いったい僕一人に何ができるのだろうか?
悩みながら、そのヒントすらなく、日々が過ぎ、気持ちはあせるばかり。
応援すると言ったのに、こんなことでは僕の責任はどうなるのだ?と何か自分を責めているようで、これではいけないと思いながらもその切り口すらも何も見えず。悶々とした日々が過ぎるばかりだった。
そこで、もっと冷静に、今すぐ始められることは何なのかを考えた。
二人の行動パターンはどうなのか。
ストリートはどういう状態なのか。
現実に戻り、とりあえず今は、一歩一歩をどう進むのかを考え、また二人の特徴!長所!短所!を研究し始めた。二人には内緒で、隠れるようにしてストリートを見に行ったりもした。
ファンは二人をどう思っているのか?ファンの人たちみんなは力を貸してくれるのだろうか?
彼らの置かれている状況や様々なことを冷静に分析した。
社長業の傍らで、僕が二人と行動を共に出来るのは、夜と、土曜日曜祝祭日しかない。彼ら二人だけで出来る事、僕と三人でしか出来ない事などを考えていく中で、二人に何をしてもらい、僕は何をするか、少しずつ見えてきたものがあった。 しかし、やはり一人では出来ることにも限界がある。ファンのみんなに何か具体的に手伝ってもらえることはないかを考えた。
ただ、その前に、僕が気になっていた事がひとつあった。
それは、あの日、路上で二人から買ったデモテープだった。音質が悪すぎて、せっかくいい歌を歌っているのに、それが台無しである。これでは彼らの良さは伝わらないと思い始めた。そして、映像も必要かな?と・・・
そうだ!二人の良さがわかる、CDとプロモーションビデオを作ろう!
しかし、どうすればCDは作れるんだろう?
プロモーションビデオ?
いったいお金はどれぐらいかかっるんだろう?
素人の僕には わからない事ばかりで、またも研究をするはめとなった。
悩み悩んだすえ!!そうだ!清水 興を探そう!!清水に、まずは 二人に会ってもらって、相談に乗ってもらおう!こうして、僕の中学の後輩である清水興探しが始まった。
清水興 プロフィール
80年代に NANIWA EXPRESS、90年代に HUMAN SOULそしてBAND of PLEASUREを底辺から支えてきた、日本屈指のグルーヴ・ベーシスト。骨太のサウンドにスリルあふれるスピード感は、あたかもラバーバンドのように伸縮しながら、 聴くものをグルーヴの世界へ誘(いざな)う。その評価は国内のみならず、世代を越えて広く海外のミュージシャンにも認められている。特にドラマーからの評価は高く、 JamesGadson、Bernard Purdie、Dennis Chambersらと数多くの共演盤を残している。
現在は土岐英史(sax)※注1やKANKAWA(organ)のプロデューサー/ベーシストとして活躍する傍らコブクロのライヴでの音楽監督※注2も務める。802年夏からはいよいよNANIWA EXPRESSも活動を再開しその活動はますます多岐にわたっている。
※注1:インディーズ3rdアルバムの「心に笑みを」のサックスや、メジャーアルバムRoadmadeの「Ring」のサックスを吹いてくださっている方です。
※注2:LiveRally2002は、清水興さんのプロデュースです。もちろん、インディーズ1stアルバムのすべて、2ndアルバムの中の「桜」は清水さんがプロデュースしてくださっています。
俺の中学時代の先輩、坂田美之助さんから久々の電話があったのは99年の3月だった。先輩と言っても半端な先輩じゃなかった。 彼は当時俺が新入生として入部したバスケットボール部の副主将として君臨されていたスタープレイヤーだったのだ(マジで強いチームだった)。 基礎体力のアップという名目でこっぴどく、しごかれた経験は、今の俺を作ってくれている大きな要素のひとつとして、今となっては感謝している。
「お前の電話番号探すのに思いっきり苦労したわっ!」
電話の向うの声は中学時代となんら変わりの無いVIBEで俺の耳に飛び込んでくる。
続けて彼は街で見かけたどうしても気になる二人の事を話し出した。ここで俺が初めてコブクロの二人を知る事となる。 とにかく一度聴いて見ましょう、と言うことで松屋町にあるスタジオを2時間抑えて、そこで二人のパフォーマンスを披露してもらう事にした。
とにかく俺は彼らの生に触れたかったので、MDのRecスイッチを押して、彼らのオリジナルを唄ってもらう事にした。社長と俺の二人を前にして「桜」に始まり、「向かい風」にいたる12曲を一気に唄ってくれた。 ちなみにLiveRallyで披露した「忘れな傘」はこの時のMDを基にアレンジしたのだ。予想以上のポテンシャルを秘めた彼らと共に、スタジオを後にして近所のおでん屋で夕食を食いながら談笑する事にした。
「アカンのやったら、アカンって今ここでハッキリ言うたってくれっ!」
相変わらず社長は無駄な話が嫌いなようだった。
俺は率直に感じた彼らのいいところを三つ指摘した。
まず声がしっかり出ている事、POPSとして印象に残るべきハッキリしたメロディーを持っている事、そしてとてもポジティヴなメッセイジを持った詩が唄われている事だ。
俺の話を聞いて彼らの表情が少し穏やかになったような気がした。なんでもスタジオに入る前に社長から相当プレッシャーを掛けられていたようだったのだ。 そんな話を聞くに彼らがカナリの覚悟でスタジオに乗り込んできた事は容易に想像出来た。
「こいつらのCD作られへんかな?」
社長の提案があった頃には既に俺にはデビューアルバムのカラーがイメージ出来ていたのだった。
彼らのよさを前面に出すには彼ら二人そのものをフィーチャーするに越した事はない。その観点で彼らの音楽に更なるエネルギーを注ぎ込んでくれるプレイヤーとして迷わず中村岳が思い浮かんだ。 カホンとアコースティック・ギターの醸し出すリズムに乗って彼らのハーモニーが包み込む。限られた予算でも必ずいいものが出来る。俺は既に成功を確信していたのだった。